屏風

とあるきっかけでとある人のとある屏風を見る機会に恵まれました。
(なんか名前等出さない方が良さそうなのでふせます)

現代ではなく有名な人の古い物です。

美術館であればガラス越しにしか見ることのできないものを間近に見るとさすがに違う。
虫が食っていたり、和紙の状態まで鮮明に見える状態で、適度な自然光の入る中で見ると全然違う。

それはきっとものすごい速さで描き上げられたものと思われるが、とにかく筆の動かし方がよくわかり、想像がかき立てられることこの上ない。

そして、それと同時にもはやこのような感覚は失われたな、ということも思う。
古典作品を見るのは好きだが、それをそのままやろうという気にはならないわけで。無論できないわけで。

とにかく卓越した技巧を見せつけるような挑戦的な態度すら感じさせる雰囲気で、リラックスしていながらも完璧に筆が手足となっている様子。筆を打ち込んで離すまでにどう動くか、それを計算しつつもそこからはずれるものを楽しみながら、それをねじこんで対象となるものへおとしこんでいく。
一連の流れがごく自然にとても高度に、シンプルにまとめられていた。


こういうのを見ると、何をすべきなのかとても頭が痛い。
彼らが木を描き山を描き川を描き、鳥を描き。それらの行為が現代人にとっては一体なんなのか?

ボイスは絵を描いたり、美しいだけのものをつくることはもはや私には必要ないのです。みたいなことを言っていた。社会に対して働きかけ、アーティストが社会的な存在としてその身を捧げる一方で、個人としては一体どうやって自らを満足させればいいのか?

おそらく、この屏風のようにはいかないのだろう。
彼らは風景をある意味では絵具のように使い画面を構成していたと思う。それらのパーツは彼らの日常であり、自然だった。
ところが、今我々が同じものを描いたとしてもそれは日常ではない、「自然」という言葉も疑わしい。

現実のものを見ながら一体何をみているのか?
そこには常に勝手になにかがくっつきアイコン化され量産され、だれかのフィルターを常にとおって、ひとたびその場を離れれば変貌していくような、とらえどころのない風景が展開されているような気がする。

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