展示など。

最近もまたいろいろ展示を見ましたのでそのなかから。

大阪、国立国際美術館、絵画の庭

招待券あったので、行きました。同時代感というか横の意識のつながりみたいなのをすごく感じました。特に年齢が近いひとほど思考することはちがっても感覚的な作風の人だと「なんか」が共通している気がした。皮膚感覚というか、見ている空気感というか。

個別の印象よりもそういった時代感、みたいな印象が強かった。



恵比寿、東京都写真美術館、森村泰昌、なにものかへのレクイエム、http://www.syabi.com/details/morimura.html

六本木クロッシングでも見たけど行ってみた。
もはや誰も止められない領域まできたと思う。嫌いな人はいるんだろうけど、誰もあそこまでやらないわけでもう、すごいですね。
演説みたいのとか、英語も関西弁(京都?)でうける。関西の力はやはりあなどれない。東京はやはり鬱々とした空気が流れている。僕は愛知と大阪のハーフであるのでややそういった関西のすかーっとした感じには賛成である。


六本木アートナイト

キダムすごい。
プロフェッショナルなエンターテイメントというものはもうすごい力でひ弱なアートっぽいアートを吹っ飛ばしてくれる。これがある種のフィルターのように思えた。
ひ弱と言ったけどもそれはナイーブで繊細な作品のことではなくなんかこう、中途半端なそんなやつのことであり、案外ナイーブそうに見えても、ごく個人的な主張や感情に基づいていてもこのフィルターをこえるものはある訳で…ということを考えた。

そのた、展望したり色々しましたが、基本高校の同級生との夜遊びでした。そんなイベント。楽しいと思うけど。美術!!というものではない(そんなイベントもどうかと思うが)。

あ、スーパーデラックスに行ったらブリーフのおじさんがビバグロバライゼーション!!と叫びながら観客にコーラとか小麦粉とか味の素をかけられていた。しかし、盛り上がりどころもあり妙に感動した。

千駄ヶ谷、art complex tokyo、宴 -EN-

同じアトリエの板垣悠さん(web)など女性・日本画というキーワードのグループ展。

日本画学科の先輩でありジャズ研の先輩でありバンド一緒だったりもし、卒制も手伝った長谷川三千絵さんの作品を久しぶりに見ました。なにか新鮮な気分になりました。
岩絵具というのは色を塗ると同時に強力な「質」を画面に与える効果も併せ持つ画材なのですが、番数が小さくなるほど粒子が粗くなります。彼女の作品はその割と粗めの絵具を使って植物をパネル張りしない和紙に描いたものでした。近寄るとそれはただの砂粒になり、離れるとやや湿度をともなった葉や花になる、そんな作品でした。大雑把ですが女性らしい作品だったなと思いました。


僕はここ最近、そういった質とか日本画に対する意識には大きな距離感を感じていたので、逆にそれをうまく使うというのはどういうことか?というのを比較的ちかしい人でそれを確認できてよかったです。



少し自分のこと。
上記の質のことで、ここ最近思うのは、質とか(どんだけざらざらとか)の感覚が実は自分にはあまりないということがわかった。それは印刷物を介した情報がメインになって自分が形成されているということだと思う。
しかし、決してそれはネガティブなことではなくそれによって我々が受けているメリットも多々あると思う。

…メリットはいいとして、とにかくそういった「フラットなもの」で自分の意識ができている感覚・気配を感じている。
だから、日本画というものにたいして、単に絵画を構成するためにもちいる質感に非常に拒否反応がある。
もちろん、卓越したテクニックによって生み出される現代日本画は美しいけどそうじゃないことに自分の興味は向いている気がする。



書いているうちに力つきたので終了。

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